2013年3月15日金曜日

東日本大震災2年 遺族代表の言葉 記事ピックアップ

東日本大震災2年 遺族代表の言葉


産経新聞 3月12日(火)7時55分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130312-00000123-san-soci

□宮城県・西城卓哉さん(32)
 ■妻はいつまでも尊敬する人
 つらい日々がありました。
 大切な家族を亡くした私たちにとって、この2年という歳月は、一日一日を生きることがこんなにも大変なことだったのかと、過ぎ行く時間の重さを、感じ続けた2年でした。
 自分は何のために生きているのだろう。
 あの人の生きた日々は、幸せだったろうか。
 何度も同じ疑問が浮かんでは、そのたびに息が詰まり、答えを出せずにいました。
 それでも、一つだけ確かなことは、あなたがいた、私の人生は、幸せだったということです。
 どこにいても、何をするときでも、妻の由里子と息子の直人への想いは、片時も離れることはありませんでした。
 毎日早起きしてお弁当を用意してくれたり、息子の離乳食を一つ一つ丁寧に作ってくれたり、そんな妻に喜んでもらいたくて、休みの日に少しだけ早起きして、お掃除をしたこともありました。
 取り合うように家事をやっていたことが、懐かしく思いだされます。
 毎日、笑顔と、「ありがとう」の言葉が絶えることはありませんでした。
 毎日が幸せでした。
 この悲しみに区切りはなく、終わりもありませんが、弱くて未熟な自分が今こうしていられるのも、あの日から今日までにかかわったすべての方々に支えてもらったからこそだと、心から思います。
 妻の由里子はいつまでも尊敬する人であり、私の一番の目標です。
 直人と一緒に、きっといつまでも見ていてくれると思います。
 自分に残されたこれからの年月をかけて、愛する2人の人生の続きを、私が歩んで行こうと思います。
 あの日とともに深く心に刻まれた、多くの尊い命を、私は決して忘れません。
 亡くなられた方々の安息を、ひたすら祈念し、追悼のことばといたします。

 □福島県 八津尾初夫さん(63)
 ■現実を受け止め力強く歩む
 あの、悪夢のような震災から2年、今朝も目が覚め被害にあった自宅へ車を走らせると、やはり夢ではない現実がそこにあります。風が吹くと砂塵(さじん)が舞う荒涼とした大地、その向こうにかつてあったはずの緑の松原は消え去り、まぢかに迫りくる海岸線、平穏な生活の営みがあったはずの、緑豊かな農村風景はそこにはありません。
 私の住んでいた南相馬市、一翼を担ってこられた方々、また、福島を、日本を背負っていったであろう方々、夢、志、半ばにしてお浄土へ行ってしまいました。
 六百数十名が犠牲になり、多くの方がいまだに家族の元へ帰ってきておりません。認めたくない現実です。
 対岸の火事と思っていたこの自然現象で、地球より重い命、愛しい家族、数多く失ってしまいました。あまりにも無防備だったことに対し深く反省し、二度とこのようなことにならないように、この惨状を後世に伝えていかなければなりません。
 あの震災直後、身の危険も顧みず人命救助、行方不明者の捜索をしてくださった、消防団、自衛隊、警察、地元住民などで、多くの命を救って頂いたし、犠牲者の発見もして頂き、家族の元へ帰して頂きましたこと、そして、全国各地より物心両面でご支援頂きましたことに対し、改めて感謝申し上げます。
 2年の月日が経過する今、私たちはなかなか前へ進めないでおりますが、残された私たちに「亡くなった家族の思いは何か」ということを考えると、それは現実を受け止め、一歩一歩前へ力強く歩んで行くことではないかと思います。
 住宅の再建、農地の復旧、地域のコミュニティー、放射能不安などなど、課題山積、前が見えませんが、本日を一つの節目とし、力を合わせ、緑豊かな、元の、いや元以上の故郷、子供たちの歓声がこだまする故郷再生、再興のために努力していくことを、心をお寄せいただいた全国の皆様方に、そして、お浄土へ行ってしまった御霊(みたま)に、お誓いを申し上げ追悼のことばといたします。

 □岩手県・山根りんさん(18)
 ■自分の道進み母に恩返し
 私は日々便利になっている世の中を当たり前だと思っていました。毎日学校に通い、家族と一緒にご飯を食べること、母がいつも傍(そば)に居てくれることも当たり前だと。あの日が訪れる前までは。
 忘れもしない2年前の3月11日。
 突然、今までに感じたことのない地鳴りとともに強い揺れが襲ってきました。
 高校からの帰り道、私を心配し母が迎えに来てくれました。周りを見渡すと真っ黒い津波が遠くに見えたと思っていたのに、母と一緒に高台へと避難しようとしていた足元に濁流が近づいて来る。「大丈夫だよ」そう励ましながら母の背を押すように急いでいた矢先、突然、視界が真っ暗になり、気が付くと海の中にいました。
 必死にもがき、薄れる意識の中、木材につかまり黒い海の上に出て、周りが静まり返った中、母を何度も何度も呼び続けました。私は近くの建物まで泳ぎ、今こうしてこの壇上に立っています。
 一緒に笑い、当たり前のように暮らしていた母が亡くなるなんて、数日後、遺体安置所で見つかった母の顔を見たとき、「これが現実なんだ」と気づき、あの時ほど母の大切さを感じたときはありません。
 あれから2年。私はあの日より、少しだけ強くなりました。それは、亡くなった母への想いと残された家族や友人、そして多くの方々の支えがあったからです。
 私はもちろん、被災者は、全国・世界の皆様から、多くの支援物資、義援金による支援や、自衛隊、ボランティアによる温かい支援、励ましの言葉を受け、生きる希望が生まれました。
 人と人との絆や助け合い、人の温かさを強く感じ、とても勇気づけられました。だからこそ今、私も前を向いて生きること、自分が決めた道を歩むことも少しずつだけど、できているような気がします。
 私の生まれ育った宮古の今は、壊れた道路が直り、新しい店舗や家が建ち始め、通学途中にあったがれきの山も減り、着実に復興が進んでいると感じられます。
 なにより周りのみんなに笑顔が増えたと思います。
 母に感謝の言葉をかけることも、親孝行もできませんでしたが、私が自分らしく生きることが母に対する一番の恩返しだと思っています。
 多くの命が犠牲になった中、助かったからには、生きて人の役に立つことが自分の使命だと考え、世界の自然災害が発生した国々において、自らの被災体験を生かした支援活動ができる人材となり、東日本大震災がつらい記憶ではなく、未来につながる記憶となるよう、被災地から私たち若い世代が行動していきます。
 最後に、天皇皇后両陛下をはじめ、世界各国や日本中の多くの皆さまからの励ましやお見舞いありがとうございました。
 今日こうしていられることに感謝し、恩返しすること、忘れないこと、これからも自分らしく生きることを誓って遺族代表のことばとさせていただきます。

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