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2013年3月15日金曜日

東日本大震災2年 遺族代表の言葉 記事ピックアップ

東日本大震災2年 遺族代表の言葉


産経新聞 3月12日(火)7時55分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130312-00000123-san-soci

□宮城県・西城卓哉さん(32)
 ■妻はいつまでも尊敬する人
 つらい日々がありました。
 大切な家族を亡くした私たちにとって、この2年という歳月は、一日一日を生きることがこんなにも大変なことだったのかと、過ぎ行く時間の重さを、感じ続けた2年でした。
 自分は何のために生きているのだろう。
 あの人の生きた日々は、幸せだったろうか。
 何度も同じ疑問が浮かんでは、そのたびに息が詰まり、答えを出せずにいました。
 それでも、一つだけ確かなことは、あなたがいた、私の人生は、幸せだったということです。
 どこにいても、何をするときでも、妻の由里子と息子の直人への想いは、片時も離れることはありませんでした。
 毎日早起きしてお弁当を用意してくれたり、息子の離乳食を一つ一つ丁寧に作ってくれたり、そんな妻に喜んでもらいたくて、休みの日に少しだけ早起きして、お掃除をしたこともありました。
 取り合うように家事をやっていたことが、懐かしく思いだされます。
 毎日、笑顔と、「ありがとう」の言葉が絶えることはありませんでした。
 毎日が幸せでした。
 この悲しみに区切りはなく、終わりもありませんが、弱くて未熟な自分が今こうしていられるのも、あの日から今日までにかかわったすべての方々に支えてもらったからこそだと、心から思います。
 妻の由里子はいつまでも尊敬する人であり、私の一番の目標です。
 直人と一緒に、きっといつまでも見ていてくれると思います。
 自分に残されたこれからの年月をかけて、愛する2人の人生の続きを、私が歩んで行こうと思います。
 あの日とともに深く心に刻まれた、多くの尊い命を、私は決して忘れません。
 亡くなられた方々の安息を、ひたすら祈念し、追悼のことばといたします。

 □福島県 八津尾初夫さん(63)
 ■現実を受け止め力強く歩む
 あの、悪夢のような震災から2年、今朝も目が覚め被害にあった自宅へ車を走らせると、やはり夢ではない現実がそこにあります。風が吹くと砂塵(さじん)が舞う荒涼とした大地、その向こうにかつてあったはずの緑の松原は消え去り、まぢかに迫りくる海岸線、平穏な生活の営みがあったはずの、緑豊かな農村風景はそこにはありません。
 私の住んでいた南相馬市、一翼を担ってこられた方々、また、福島を、日本を背負っていったであろう方々、夢、志、半ばにしてお浄土へ行ってしまいました。
 六百数十名が犠牲になり、多くの方がいまだに家族の元へ帰ってきておりません。認めたくない現実です。
 対岸の火事と思っていたこの自然現象で、地球より重い命、愛しい家族、数多く失ってしまいました。あまりにも無防備だったことに対し深く反省し、二度とこのようなことにならないように、この惨状を後世に伝えていかなければなりません。
 あの震災直後、身の危険も顧みず人命救助、行方不明者の捜索をしてくださった、消防団、自衛隊、警察、地元住民などで、多くの命を救って頂いたし、犠牲者の発見もして頂き、家族の元へ帰して頂きましたこと、そして、全国各地より物心両面でご支援頂きましたことに対し、改めて感謝申し上げます。
 2年の月日が経過する今、私たちはなかなか前へ進めないでおりますが、残された私たちに「亡くなった家族の思いは何か」ということを考えると、それは現実を受け止め、一歩一歩前へ力強く歩んで行くことではないかと思います。
 住宅の再建、農地の復旧、地域のコミュニティー、放射能不安などなど、課題山積、前が見えませんが、本日を一つの節目とし、力を合わせ、緑豊かな、元の、いや元以上の故郷、子供たちの歓声がこだまする故郷再生、再興のために努力していくことを、心をお寄せいただいた全国の皆様方に、そして、お浄土へ行ってしまった御霊(みたま)に、お誓いを申し上げ追悼のことばといたします。

 □岩手県・山根りんさん(18)
 ■自分の道進み母に恩返し
 私は日々便利になっている世の中を当たり前だと思っていました。毎日学校に通い、家族と一緒にご飯を食べること、母がいつも傍(そば)に居てくれることも当たり前だと。あの日が訪れる前までは。
 忘れもしない2年前の3月11日。
 突然、今までに感じたことのない地鳴りとともに強い揺れが襲ってきました。
 高校からの帰り道、私を心配し母が迎えに来てくれました。周りを見渡すと真っ黒い津波が遠くに見えたと思っていたのに、母と一緒に高台へと避難しようとしていた足元に濁流が近づいて来る。「大丈夫だよ」そう励ましながら母の背を押すように急いでいた矢先、突然、視界が真っ暗になり、気が付くと海の中にいました。
 必死にもがき、薄れる意識の中、木材につかまり黒い海の上に出て、周りが静まり返った中、母を何度も何度も呼び続けました。私は近くの建物まで泳ぎ、今こうしてこの壇上に立っています。
 一緒に笑い、当たり前のように暮らしていた母が亡くなるなんて、数日後、遺体安置所で見つかった母の顔を見たとき、「これが現実なんだ」と気づき、あの時ほど母の大切さを感じたときはありません。
 あれから2年。私はあの日より、少しだけ強くなりました。それは、亡くなった母への想いと残された家族や友人、そして多くの方々の支えがあったからです。
 私はもちろん、被災者は、全国・世界の皆様から、多くの支援物資、義援金による支援や、自衛隊、ボランティアによる温かい支援、励ましの言葉を受け、生きる希望が生まれました。
 人と人との絆や助け合い、人の温かさを強く感じ、とても勇気づけられました。だからこそ今、私も前を向いて生きること、自分が決めた道を歩むことも少しずつだけど、できているような気がします。
 私の生まれ育った宮古の今は、壊れた道路が直り、新しい店舗や家が建ち始め、通学途中にあったがれきの山も減り、着実に復興が進んでいると感じられます。
 なにより周りのみんなに笑顔が増えたと思います。
 母に感謝の言葉をかけることも、親孝行もできませんでしたが、私が自分らしく生きることが母に対する一番の恩返しだと思っています。
 多くの命が犠牲になった中、助かったからには、生きて人の役に立つことが自分の使命だと考え、世界の自然災害が発生した国々において、自らの被災体験を生かした支援活動ができる人材となり、東日本大震災がつらい記憶ではなく、未来につながる記憶となるよう、被災地から私たち若い世代が行動していきます。
 最後に、天皇皇后両陛下をはじめ、世界各国や日本中の多くの皆さまからの励ましやお見舞いありがとうございました。
 今日こうしていられることに感謝し、恩返しすること、忘れないこと、これからも自分らしく生きることを誓って遺族代表のことばとさせていただきます。

2012年10月22日月曜日

新聞から 震災犠牲者のDNA検体返還へ

『震災犠牲者のDNA検体返還へ 県警が遺族の意向確認着手』
10/4の河北新報から
  
    引用・・・・・
宮城県警は、東日本大震災で亡くなり身元が確認された犠牲者について、DNA鑑定に 使った骨片や爪などの検体を希望する遺族に返還する手続きを始めた。「遺族の思いを踏まえ、検体も形見と考えた」と県警は説明する。受け取るかどうか意向 を確認するため、既に約3000人の遺族に返信用はがきを送った。
 県警によると、県内で見つかった全ての遺体から、爪や骨片、歯、筋肉、血液のうち一つを検体として採り、血液以外の約3000人分を保管している。各検体は1立方センチ程度の大きさで、県警に依頼された医師が採取した。
 DNA鑑定の実施数は膨大で、宮城県警だけでは作業が追い付かなかったため、検体の多くを宮城以外の全国の警察本部などに送った。鑑定が終わった後は、県警が再び回収して管理している。
 対象となる遺族には、検体を受け取るか、処分を県警に一任するかのどちらかをはがきに書いてもらう。受け取る場合は警察署から連絡があり、引き渡しの日時などを調整する。処分を一任した場合は市町村などで合同埋葬する予定だ。
 県警は10日までの返信を呼び掛けており「検体は犠牲者の身体の一部で大切なもの。取り扱いでは遺族の意思を尊重したい」(身元不明・行方不明者捜査班)と話す。

鑑定資料も「大事な形見」 宮城県警、震災遺族に返却  
10/10 朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/national/update/1006/TKY201210060136.html

    引用・・・・
宮城県警は、DNA鑑定によって身元が特定できた東日本大震災の犠牲者について、家族らに対し、遺体から採取した歯や爪など約3千点の返還を今月から始めた。
 「次男の結婚式に、せめて母と三男の爪だけでも参加させたい」。同県警の身元不明・行方不明者捜査班に4日、震災の津波で母と弟を亡くした宮城県沿岸部に住む長男から電話が入った。
 母と弟の遺体はすでに引き渡されているが、近く次男が結婚式を挙げるという。長男は「どうしても母と弟を結婚式につれていきたい。2人の爪を引き取りたい」と伝えてきた。県警は希望通り引き渡した。
 県警によると、通常の不明遺体の場合、身元が特定されても家族らは返還を望まないことが多いという。だが、震災関連の遺体については、約半数が返還を希 望しており、5日までに約100件の問い合わせがあったという。捜査班の金野芳弘検視官は「遺骨は埋葬してしまうので、爪や歯は鑑定資料というだけでなく 家族にとっては大事な形見。必要とする人には返していきたい」と話している。(高津祐典)
 

10月になって宮城県警ではDNA検体の返却に着手しました。
はがきはご遺族の手元に届いており、皆さんそれぞれの思いを送られたと思います。

私も「遺体」という本を読む前までは、全てのご遺体からDNA鑑定のため検体を取られていた事実は知りませんでした。

発見と同時に身元確認を済ませていたご遺体もあったでしょう。
このハガキで初めて歯や爪を取られていた事、ご遺体に手を掛けられていた事を知った遺族の方もいらっしゃったようです。

DNAの為の歯や爪の採取は震災において仕方ない事だと分かりつつも、これ以上体を傷つけられるののかと、遺族の中には簡単に割り切れるものでもないようです。(検体への批判ではないです)

そして、今回の連絡で、一気に当時を思い出してしまったと・・。
ご遺族の方の心情を考えると、今回の事も含め、これからも先色々な場面で当時を思い出すような事があるのだろうなと思いました。


勿論、新聞にも取り上げられているように、お骨は納骨されるので手元には残らない。
歯や爪を形見として引き取りたい声があるようで遺族の方の大切な形見になっていくのでしょう。

一方、納骨が済んでいるので今さら受けとりと言っても・・・・でも、合同埋葬されるよりは引き取りたい・・・皆さん受け取った後、どのように保管するのかという声も聞きました。

県警の方、検体採取に携わってきている方々の苦労や思いに敬意をはらいながらも、「形見の返却よかったね」で新聞を読むだけではなく、多くの思いで苦しんでいる遺族の方がいると言う現実を知った今回の出来事。

沢山の遺族の方の思いを色々と察しながら、新聞のご紹介しか出来ませんが、遺族の方々の心境を・・・現実を・・・周りにいる私達も少しは知ることによって、何かしらの想いにつながればと思います。



2012年3月24日土曜日

ピックアップ記事:「思いは同じ」「支え合って進もう」 陸前高田市

新聞記事からピックアップ
 
思いは同じ」「支え合って進もう」 陸前高田市(産経ニュース)2012.1.17 09:35

思いは同じ。支え合って進もう-。阪神大震災から17年を迎えた17日、東日本大震災の被災地で、地域住民らによる追悼行事が行われた。遠く離れた関西と東北の被災地を、鎮魂と再生の灯火が照らした。
岩手県陸前高田市では、地域住民らが、阪神大震災の被災者らと思いを共有しようと、犠牲者の鎮魂と町の再生を願う神戸市のガス灯「1・17希望の灯り」を 分灯した「3・11希望の灯り」を、昨年12月に建立していた。その直後、メンバーの小松茂さん(61)が「神戸市のみなさんの支援に対し、感謝を伝えた い」と、1月17日の追悼行事の企画を提案、準備を進めていた。
半分に切ったペットボトルに水を張った住民手作りの灯篭(とうろう)約 100個に、被災地支援を続けるNPO法人「たすきプロジェクト」代表で、神戸市在住の堀内正美さん(61)がろうそくを提供。灯火が移されると、会場周 辺に暖かな光がゆらめいた。午前5時46分、集まった約30人は静かに目を閉じ、黙祷(もくとう)した。
長男を失った浅沼ミキ子さん (48)は「肉親を亡くすことでしか阪神のみなさんの苦しみに気づけなかった。当時何もできなかった後悔と、どうか安らかに、という気持ちで祈りまし た」。小松さんは「親類や友人ら20人以上が津波にのまれたが、神戸市の人々との交流で“家族”が増えたようだ。灯は、同じ苦しみを持つ者がともに生きる 力だ。それぞれの復興に向け、踏み出したい」と思いを新たにしていた。



*新聞ピックアップ
インターネットの新聞記事は消えてしまう事があるので、引用紹介していきたいと思います。

自分が悲しみを経験して初めて人の悲しみに気付く事が多いと思います。
こんなにも生きている人生の中で、悲しみを背負って生きている方が多いということを。
生きる方に回ったものが、どうこの悲しみを受け止めどう考えていくのか
人それぞれで、それぞれの考え方があると思います。
そんな皆さんの想いを繋いで、悲しみに向かおうとしている方へのメッセージとして
微力ながら発信していきたいと思います。

2012年3月17日土曜日

ピックアップ:政府追悼式・宮城県代表の奥田江利子さん

政府追悼式・宮城県代表の奥田江利子さん「涙を越えて、強くなる」2012.3.11msn産経ニュースより 


「悲しみを抱いて」 (一部引用)  
受けとめがたい現実、やり場のない怒りと悲しみ、そして限りのない絶望。
 最愛の人を失ったというのに自分が生きているという悲しみ。「生きることがつらい」。そう思う申し訳ない気持ち。生きていることが何なのか、生きていくことが何なのかを考えることさえできない日々が続きました。
 愛する人たちを思う気持ちがある限り私たちの悲しみが消えることはないでしょう。遺族はその悲しみを一生抱いて生きていくしかありません。
 だから、もっと強くなるしかありません。涙を超えて、強くなるしかありません。
 今、私はこう思うようにしています。「子どもたちが望む母でいよう」「これでいいだろうか」「こんなときに両親はなんと言うだろう」
 そう思うことで、「亡くした家族と一緒に暮らしている」。そう感じていたいからです。
 絶望の中にさす光もありました。息子は私たちに生きる意味を残しました。
 忘れ形見の初孫が7月に生まれ、元気に育っています。
 その孫の成長が生きる希望へとつながっています。
 最後に、被災地の私たちを支えて下さった多くの皆さん、日本全国、世界各国の皆様に心から感謝を申し上げます。
 皆様からの温かな支援が私たちに気力と希望を与えてくださいました。
 だから今日までこうして過ごしてこれました。
 その恩に報いるには、私たち一人一人がしっかりと前を向いて生きていくことだと、そう思っています。差し伸べてもらったその手を笑顔で握り返せるように乗り越えていきます。
 本当にありがとうございます。
平成24年3月11日
 宮城県代表 奥田江利子

影ながら気にかけ応援したいと思っております。
まだ一年。
大切な方を失った方々の悲しみへの向き合い方は様々だと思います。
一年という節目という言葉にとらわれずに、ご自分の気持ちを大切に、無理のないようにと思います。
私も、ふとした時に立ち寄れる場所作りに努めてまいりたいと思いますので、辛くなった時、「王様の耳はロバの耳」ではないですが、吐き出す場所としてお立ち寄りください。

2012年3月1日木曜日

東日本大震災塩竈市追悼式について

東日本大震災により犠牲となられた市民の方々の1周忌を偲び追悼式を行います。
○と き  3月11日(日)14:30~
○ところ  塩釜ガス体育館(今宮町9番1号)
○主 催  塩竈市
・追悼式は無宗教で執り行います。
・葬儀ではありませんので、ご供花、ご供物、ご香典などは辞退
申し上げます。
・一般の市民の皆さんも弔意を表する機会がありますのでご参列
ください。
・なお、式典当日は東日本大震災の発生から1年を迎えます。市
ではこの震災でお亡くなりになられた方々の、ご冥福をお祈り
し、黙祷を捧げるため、地震発生時刻の午後2時46分にサイレン
を1分間鳴らしますのでご理解とご協力をお願いいたします。

塩釜市HPより

2011年10月29日土曜日

記事ピックアップ 東日本大震災:愛する家族失った人の力に 11月3日

東日本大震災:愛する家族失った人の力に 来月セミナー

http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20111030k0000m040082000c.html

(毎日新聞) 2011年10月29日 21時45分 

子どもを亡くした親でつくるNPO法人「大空の会」(東京都東大和市)が11月3日、仙台市内で「死別体験者のための癒しのセミナー」を開く。都内で毎月、思いを語り合うセミナーを開いており、今回初めて被災地に出向く。震災犠牲者の遺族らに広く参加を呼びかけている。

会は02年に設立。事故や病気、死産などで子どもを亡くした親たちが集まり、定例セミナーでの懇談を通し、互いの思いを分かち合っている。故人の思い出を語りながら涙する人もいるが、趣味やペットなど明るい話題にも及び、笑顔に包まれるという。
 瀬野彩子会長は「生きていくには笑いも必要。悲しむだけの会にはしたくなかった」と話す。瀬野さん自身も99年に長男(当時3歳)を交通事故で亡 くし、「もう立ち直ったの」「いいかげん忘れたら」など周囲の言葉に傷ついたという。瀬野さんは電話相談にも応じており、震災による津波で家族が流された 男性は、電話口で自分だけが生き残ったことを悔やみ、「本当にいい子だった」と感謝を繰り返したという。「つらさは経験者にしか分からない。震災で愛する 家族を失った人に、ぜひセミナーに参加してほしい」
 3日13時半から、仙台市青葉区五橋2の市福祉プラザ。子どもとの死別に限らず、親族や知人を亡くした人も参加できる。参加無料。要予約。問い合わせは電話042・562・6803、メール(oozoranokai38@yahoo.co.jp)。

 

記事ピックアップ!!子を亡くした親、悲嘆分かち合う

子を亡くした親、悲嘆分かち合う 被災地で取り組み 

http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/shakai/higashinihon/0004382056.shtml

神戸新聞から(2011/08/18 12:15)

東日本大震災の死者・行方不明者は2万人を超える。阪神・淡路大震災を上回る大きな犠牲は、人々にどれほどの悲嘆をもたらしたのか。とりわけ苦しみ が深いのが、津波で子どもを失った親たちだという。被災地の東北では、そうした親たちがつらさを分かち合い、支え合う自助の取り組みが徐々に広がっている。

 宮城県北東部の石巻市は死者・行方不明者が約4千人。市民の40人に1人が犠牲になった。
 津波で子どもを亡くした親の集いが開かれたのは先月31日。会場となった市役所の研修室には母親7人が姿を見せた。
 部屋に入るなり誰もが涙を流す。初めて会った人も、思い切り泣くことから交流が始まった。
  「助けてやれなかったという自責の念。子どもとまだ対面できていない親もいる。全部流されて遺品もない。けれど避難所では泣き声を上げられない。普段は耐 えているが、誰もが内に悲しみを抱えている」。会を呼び掛けた仙台市の主婦、田中幸子さん(62)は遺族の心情を代弁する。
 「みんな3月11日に子どもを失った。同じ境遇だから互いの苦しみを感じ取れる。遺族が生き続けるには、そうした絆を長く育むことが何よりの支えになる」
 今月初旬には、やはり津波被害が甚大だった気仙沼市で会を開いた。
 田中さんたちが遺族の支え合いに取り組む背景には、子を亡くした親の悲嘆の深さがある。
 「悲しみを癒やすというけれど、悲しみは癒えたりはしない。死ぬまで自分と共にある」
 そう語る田中さん自身、6年前に警察官だった長男を亡くした。過労による自死だった。
 自死遺族への周囲の目線は冷たい。共に泣き、語り合える人がどれほど支えになるか。そんな体験から自死遺族の会「藍の会」を立ち上げた。
 今は自死に限らず、いろんな原因で子どもを亡くした親たちの「つむぎの会」も開く。
 語り合う。気持ちを分かち合う。誰かが上に立つのではなく、横の関係でつながり合う。
 あくまで自助が中心だが、精神的な治療など医療が必要な人もいる。生活再建には行政の援助が、財産などの問題では弁護士の助言が不可欠だ。そんな場合は支援してくれる専門家の協力を得て、必要な支援につなぐ。
 田中さんの取り組みを知って、阪神・淡路大震災の遺族からも協力の申し出があったという。「自助は地域を超えた結びつきが大切。ぜひ東北で体験を話してほしい」 声を上げられない遺族は少なくないと考える。「被災地は広い。自分たちで支え合っていけるよう、地域で自助グループのお手伝いをこつこつしていきたいんです」 問い合わせは田中さん方TEL022・717・5066(ファクス兼用)

 記事に出ていた藍の会HP
一番下につむぎの会の案内が出ています



2011年9月27日火曜日

ピックアップ記事 祖父が悲しみの手記 「泥の中の孫を息子はみつけた」

新聞からピックアップ、ご紹介いたします

祖父が悲しみの手記 「泥の中の孫を息子はみつけた」(SANKEI EXPRESS

 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/507121/

息子は執念で泥に埋まった孫の遺体を見つけた。東日本大震災の津波にのまれた岩手県釜石市の避難所で長男の妻と6歳の孫が犠牲になった釜石市定内(さだな い)町の無職、菊池通幸(みちゆき)さん(63)が産経新聞に手記を寄せた。孫の姿を求め遺体安置所を回った1カ月間の苦しみ、泥だらけの遺体と対面した ときの悲しみ。手記には残された家族の癒えぬ傷がつづられている。

■お父さんの執念
《4月7日 歯みがきをしていたら辰弥から電話が入り、涼斗(すずと)が見つかったと、ふるえる声で連絡が来た。私もあわてた》
震災があった3月11日、長男の辰弥さん(35)の妻、琴美さん=当時(34)=と、体調不良で保育園を休んだ長男の涼斗君=同(6)=は、釜石市鵜住居 (うのすまい)町にある琴美さんの実家にいた。2人は近くの鵜住居地区防災センターに逃げ、津波にのまれた。センターは直前の津波訓練で避難先になってい た。
辰弥さんは職場、長女の風音(かざね)ちゃん(3)は保育園にいて無事だった。琴美さんの遺体とは18日、遺体安置所で対面した。セ ンター2階で見つかり、《間違いなく琴ちゃんだった。きれいな顔をしていた。本当に残念でくやしい》。顔に化粧をして浴衣を着せ、納棺した。
火葬は済ませたが、涼斗君が見つかるまで葬式を執り行う気にはなれず、辰弥さんらと遺体安置所やセンターを捜し歩く。《センターの東側河川方向を捜索したが、どうしても発見できない。時間だけが過ぎていく。気があせる。他人の写真、アルバムを発見して届ける日々が続く》
4月3日にはセンターでテーブルなどの下敷きになっていた女性の遺体を見つけた。《ひざをついた状態で前かがみになり、顔が泥の中にべったり付いていた。腕には手提げバッグがありました》《かわいそうすぎる。手を合わせ泣いた。孫のことを思うと心配で心配で泣けてくる》
■「毎日泣く日々」
7日に涼斗君の遺体を見つけたのは辰弥さんだった。毎日のように捜し回ったあのセンターの1階で、両手足や顔が泥に埋まっていた。額をぶつけ、鼻血を出した跡もあった。「2階で引き波でさらわれ、琴ちゃんと離れ離れになったのではないか」と思い、胸が締め付けられた。
《何回も見てる場所なのに見つけてやれなかった。本当にごめんな、ごめんな…。辰弥はやっぱりお父さんの執念で涼斗につながったと思った。お父さん、涼斗ここにいるよ、ここだよと言ったと思う》
湯につけたタオルできれいに遺体をふき、パジャマを着せて棺に納めた。大好きなポケモンのグッズ、4月の小学校入学式で履くはずだった革靴を入れた。
8日にセンターで警察による大規模な捜索が行われたというが、思いは複雑だった。《早くやれば、早く発見できたと思うと腹が立ってしょうがない。多くが避難した場所で死人も多く、行方不明者も多い現場を後回しにした》
9日には火葬場へ向かう際に保育園先生たちが駆け付けた。園長が卒園証書を読み上げたとき、無念で涙がこみ上げた。《毎日泣く日々。でも2人そろって葬式ができてよかった》
葬式は23日に遠野市内の寺で行われ、保育園の子供たちも参列。祭壇の前で涙を流す子供たちに女性の先生が「さあ歌いましょう」と声をかけ、みんなが涼斗君のために歌った。
震災から2カ月が過ぎたた今も9000人以上が行方不明で、多くの家族が不安、焦りに苦しみ続ける。
《いまだに発見されず、行方不明の皆さんが1日も早く見つかるよう祈るだけです》
□□□
≪避難場所で犠牲「うやむやにしたくない」≫
東日本大震災から2カ月近く過ぎた5月上旬、菊池通幸さんは手帳の記録と記憶を頼りに手記をしたため始めた。長男の妻の琴美さん、孫の涼斗君が命を落とした場所が津波訓練の避難先に設定されていたことを「うやむやにしたくない」と思ったからだ。
岩手県釜石市によると、現場の鵜住居地区防災センターは地震直後に逃げる1次避難所ではなく、地震後の避難生活を送る拠点避難所。だが震災8日前の訓練で、釜石市は高齢者の体力に配慮して住宅地にあるセンターを避難先にした。
震災時、大勢が訓練通りに避難して50人以上が犠牲になった。野田武則市長は3月下旬、「訓練でセンターを避難場所にしたことは市側の甘さ」と答えたが、菊池さんは「市から説明を受けておらず納得できない」と憤る。
妻子を失った辰弥さんと風音ちゃんは夜、仏壇のある茶の間で寝る。風音ちゃんは保育園から帰ると、仏壇に「お母さん、お兄ちゃんただいま」と話しかける。そして「お母さん、お兄ちゃん遅いね」と聞いてくることもある。
菊池さんは誓う。「涼斗の分も、風音を守り、幸せにする」
(高久清史/SANKEI EXPRESS





2011年9月12日月曜日

震災から半年

今日で6ヶ月。

半年を区切りに行方不明者の死亡届の提出を考えている方もいるそうです

死亡届、被災3県で3281人 震災による行方不明者(河北新報)


仙台法務局と盛岡、福島両地方法務局の直近の集計が出そろった2日現在、宮城、岩 手、福島の3県では震災による行方不明者3281人について死亡届が提出され、うち3250人分が受理された。不明者の家族の約8割が死亡届を提出してお り、震災の発生から半年を前に、心に区切りを付けようとしている。
受理数は宮城県が最多の1630人。うち石巻市が560人、女川町が325人、気仙沼市が280人、南三陸町が260人だった。岩手県は1429人で、大槌町が503人、陸前高田市が309人など。福島県は191人だった。
仙台法務局は「届け出は6月がピークで、初盆の8月にかけて緩やかに増加した。届け出をしていない家族にとっては、心情的に来年3月の震災1年が区切りになるのではないか」とみている。

2011年09月11日日曜日


そんな中


まだ待っていたい・・・「あなた」捜す日々 不明者家族複雑(河北新報)

 宮城、岩手、福島3県で、東日本大震災による行方不明者数は約4100人に上る。発生から半年を経て、苦渋の思いで死亡届を提出する家族が増える一方、「帰り」を待ち続ける姿もある。心の底にやり場のない悲しみと喪失感が沈殿する。

  「あの日から何度も何度も捜し歩いた。お父さんのおかげでダイエットができたわね」
宮城県石巻市雄勝町。がれきが散乱する自宅跡にたたずみ、高橋千賀子さん(60)が、疲れた表情に無理に笑みを浮かべる。
夫伝(ゆずる)さん(64)は高台の自宅で津波にのまれた。「ここにいれば大丈夫」。伝さんはそう言っていた。千賀子さんが車を山の上に移動している間に、想像を超える津波が家を襲った。
 千賀子さんは連日、足を棒にして伝さんを捜した。遺体安置所にも繰り返し通ったが、見つからなかった。
死亡届は出していない。葬儀も行っていない。あり得ないとは思いつつも、「どこかで生きているかもしれない」という期待を捨てきれない。千賀子さんは「1年ぐらいはこのまま待っていてあげたい」と言う。
宮城県女川町の会社員末永博さん(49)は8月、津波で行方不明になった妻(47)の死亡届を提出した。14日に遺体で見つかった次男(11)をはじめ犠牲になった家族、親族の合同葬儀を行う。
行方不明のままの葬儀には抵抗があるが、末永さんは「いつまでも悲しんでいられない。気持ちを整理するためにもやろうと決めた」と言う。
 先日、次男と妻の夢を見た。夢の中で自分に抱き付いてきた次男の体は温かかった。
     「いつもそばにいるから。そう励まされた気がして…」
2011年09月11日日曜日
人それぞれで、区切りと思える日は違うと思いますが、時間によって区切りと思ったり、何かのきっかけによって区切りと思えたり・・・・

震災から半年、 色んな思いが詰まった日となったのではないかと思います。

黙祷・・・

2011年8月11日木曜日

ピックアップ 東日本大震災 母の分まで生きる…形見の指輪と修了式

東日本大震災で被害に遭った方の記事をピックアップします

母の分まで生きる…形見の指輪と修了式

津波で壊滅的な被害を受けた宮城県石巻市渡波(わたのは)町の市立渡波小(児童数453人)で24日、10年度の修了式が行われた。安否不明だった母の死 が22日に分かったばかりの6年、中野美咲さん(12)は、母の形見となった指輪と紺色のジャケットを身に着けて出席した。離婚で父の顔を知らずに育った だけに大切な「ママ」だった。「ママに言われたとおり、元気にしようと思う」。再会した友達を前に涙をこらえた。【比嘉洋】

「どこ行く の? どこ行くの?」。22日昼、避難先の同小から市内の遺体安置所「旧青果花き地方卸売市場」に向かう車内で、美咲さんは祖父邦夫さん(63)、祖母美 恵子さん(64)に不安そうに尋ねた。2人はうつむいたままだった。美咲さんの問いかけに答えるように邦夫さんの携帯電話が鳴った。邦夫さんは相手に伝え た。「んだ。これから娘の遺体さ確認しに行く」

「うそだあ!」。美咲さんの声が震えた。どこかで生きていると信じていた。だが、安置所脇に掲示されたリストに母喜子(よしこ)さん(33)の名前があった。「何で。ママがいる……」。両こぶしで美恵子さんの胸をたたいた。

喜子さんの遺体は検視が終わっておらず、顔には泥がついたまま。「怖かったろう。寒かったろう」。美咲さんは母に語りかけ、突っ伏して泣いた。その間も安置所には新しく見つかった遺体が次々と運び込まれた。

美咲さんは祖父母と喜子さんと4人暮らし。あの日、喜子さんは市中心部で買い物中に地震に遭い、美恵子さんに電話を入れた後、弟夫妻と車で渡波町に向かう途中、津波に襲われた。美咲さんのいた渡波小まで1・5キロの場所だった。

「ママは忙しくしていたけど、いつも優しかった」。ショッピングセンターに勤める喜子さんは帰宅が深夜になることもあったが、美咲さんは毎晩、一緒に風呂 に入る時間を楽しみにしていた。いつも「みっちゃんは大切な子」と言ってくれた。化粧品を勝手に使い、しかられたりしたが、自宅ではいつも喜子さんにしが みついた。

修了式。美咲さんの右手薬指の指輪が光っていた。再会した友達と笑顔でじゃれあったが、担任の松本三重子教諭の姿を見つけると、胸に顔をうめて涙を流した。「お母さんの分まで強く生きるんだよ」と言われ、無言でうなずいた。

自宅は全壊し、避難生活の見通しも立たない。校庭には車や民家の残骸が散在している。卒業式の日程は未定。入学予定の渡波中も避難所になっていて入学式の予定も分からない。でも、美咲さんには目標がある。

高校を卒業したら、いつか母が勤めていたショッピングセンターで働きたい--。

 


 




2011年8月8日月曜日

神戸新聞から学ぶ

神戸新聞では阪神・淡路大震災の特集を組んでいました
その中から少しづつピックアップをしていきたいと思います



短歌に誓う一歩 震災で親と死別の定時制高生
神戸新聞

阪神・淡路大震災で両親を失い、周りに背を向けるように生きてきた神戸市兵庫区の西山由樹(よしき)さん(25)が、一念発起して通い始めた夜間定時制高校を今春、卒業する。4年間、仕事と勉強を両立しながら、作文や短歌に心境をつづる中で自分と向き合った。

震災で 止まった時間 今日からは 変えて見せるぞ 名に恥じぬよう
亡くなった 父母への恨み 何処へやら 今では二人の 分まで生きる
人間の 死ぬより辛い 生きること 大きな根を張り 負けずに生きる


短歌を読むだけでどれだけの苦労や思いをしょってきたのかが伺えます
生きる事は本当に辛い、けど残された命、与えられた命がいま「目標は人並みに生きること」と笑えるようにまでなった。
東北大震災で被災した子供たちも、将来笑って目標が言えるよう
周りの大人が見守って支えてあげていけたらと思う